「カメラがあると、誰かと話しやすい。写真は、自分の世界を広げてくれそうだと思ったんです」。そう語る槇野さんの歩みには、一直線の成功物語とは違う、人間らしい温かさがある。今回は、槇野さんが写真と出会い、プロの現場で学び、そして師匠・渡辺達生さんの“最後の弟子”になるまでの歩みを聞いた。
父のカメラと、5歳の夏
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まず、写真を始めたきっかけから聞かせてください。
槇野翔太
最初に浮かぶのは、父親の存在ですね。父は普通の会社員だったんですけど、会社に写真部があったんです。学校の部活みたいな感じで。写真部の人たちと、毎年夏に新潟へ旅行に行っていて、家族も参加していました。
みんなカメラを持っていて、僕も5歳くらいの時にフィルムのコンパクトカメラを渡されて、「勝手に撮っていいよ」って言われたんです。現像した写真を見て、親は「翔太はちょっと視点が違うな」と言ってくれていました。まあ、大人と子どもでは身長も違うので、視点が違うのは当たり前なんですけど(笑)。でも、そういう小さい頃の記憶はありますね。
──
最初から「写真をやりたい」と思っていたわけではなく、自然と身近にあったんですね。
槇野翔太
そうですね。誰かに教え込まれたわけでもないし、うまく撮ろうとしていたわけでもないです。ただ、カメラを渡されて、自由に撮っていたという感じです。
写真部に誘われた偶然
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本格的に写真を始めたのは、大学時代ですか?
槇野翔太
そうです。高校時代は軽音楽部で、大学に入ってからも最初は軽音に入ったんですけど、合わなくてやめました。その頃、大学の授業で作った模型が入選して、展示会をすることになったんです。展示会の係を決める時に、「受付なら座っていればいいかな」と思って受付係に立候補しました。そしたら、1学年上の女性の先輩と一緒に受付をすることになって。
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そこで写真部に誘われたんですね。
槇野翔太
はい。初対面だったので、何を話したらいいかなと思っていたら、向こうから「部活とかやってるの?」と聞かれて。「軽音をやっていたんですけど、合わなくてやめました」と言ったら、「じゃあ写真部入らない?」って言われたんです。その時、「ここで入りますって言ったら面白いな」と思って、「じゃあ入ります」って言いました。
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かなりノリで入ったんですね(笑)。
槇野翔太
そうですね(笑)。流され力というか。でも、そこからずっとカメラはやめずにやっています。
カメラが、人との距離を縮めてくれた
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写真部では、最初から人物を撮っていたんですか?
槇野翔太
最初は物とか風景ばかり撮っていました。本当は人に興味があったんです。でも、人にカメラを向けるのが怖かったんですよね。「向けていいのかな」「嫌なんじゃないかな」と思ってしまって。特に、もともと女の子と話すのがすごく苦手だったんです。話しかけられると緊張して、脇汗をかくくらいです。
──
今の槇野さんからは想像しにくいですね。
槇野翔太
そうかもしれないですね(笑)。でも本当にそうでした。大学4年くらいになって、人を撮りたいと思うようになったんですけど、やっぱりカメラを向けるのが怖い。でも、女の子を撮りたいなら誘わないといけないじゃないですか。それで、高校時代に少し話せていた友達に久しぶりに連絡して、「写真撮らせて」とお願いしたりしていました。
──
写真が、コミュニケーションのきっかけになったんですね。
槇野翔太
そうですね。カメラがあると、誰かと話しやすいんです。写真のおかげで、人と話せるようになったし、結婚もできました(笑)。
カメラがあると、誰かと話しやすいんです。
就職、陶芸、事故。そして写真へ戻ってきた
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大学卒業後は、就職も考えていたんですか?
槇野翔太
考えました。最終面接まで行った会社もありました。その時に、「これは顔合わせだから、何も話さなくても合格になるから」と言われたんです。私は素直というかアホなので、それを信じてしまって。面接で「質問はありますか?」と聞かれても、「大丈夫です」と答えたら、不合格になりました(笑)。
──
それは大人が悪いですね(笑)。その後、すぐに写真の道へ行ったんですか?
槇野翔太
私もそう思います(笑)。でも、今となっては落ちてよかったなと思います。そして、写真の前に陶芸も考えました。大学で陶芸をやっていて、先生にも気に入ってもらっていたんです。それで、益子焼の窯元に弟子入りしようと思って、原付で栃木まで行きました。ノーアポで(笑)。
いくつか回ったんですけど、「今は不況だから、君の人生を背負えない」と断られてしまって。落ち込んで帰る途中に、原付で事故に遭ったんです。右膝の十字靭帯を切って、入院しました。
──
そこで写真に戻ってくるんですね。
槇野翔太
入院中にいろいろ考えました。就職もうまくいかない。陶芸も違った。じゃあ、自分にとって何が一番自然なんだろうと思った時に、浮かんだのが写真でした。
写真は機会を広げてくれそうだなとは思っていました。20歳の時に、自転車で北海道まで一人旅をしたことがあるんです。その時もフィルムカメラで撮りながら旅をしていて。それも大きかったですね。
金髪、短パン、革靴で六本木スタジオへ
──
そこから、どうやってプロのカメラマンの道に進んでいったんですか?
槇野翔太
まずはスタジオに入った方がいいと思いました。でも、最初に受けたスタジオで「スタジオ経験がないと難しい」と言われて。それを真に受けて、日本写真芸術専門学校の夜間部に通いました。昼間は出版社でアルバイトをしたり、物撮りのアシスタントをしたりして、夜に専門学校へ行っていました。
──
その後、六本木スタジオに入るんですね。
槇野翔太
はい。六本木スタジオに履歴書を送りました。カメラマンはインパクトがあった方がいいんじゃないかと思って、履歴書の封筒にも大きく自分の名前を書きました。面接もインパクトで行った方がいいと思って、金髪、ハーフパンツ、革靴で行きました(笑)。
──
かなり攻めていますね。
槇野翔太
そうですね(笑)。面接の最後に、社長から「うちで働くなら、お客さん商売だから髪も黒くしてもらうし、髭も剃ってもらうし、身だしなみもちゃんとしてもらうけど、それはできるの?」と聞かれたんです。その瞬間、「これは受かった」と思って、「できます」と答えました。
そして採用。初日は丸坊主で行きました。そしたら社長に、「あなた、髪の毛かわいくしたわね」と言われて。ありがたいことに気に入っていただきました。
鏡の指紋ひとつ許されない現場
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六本木スタジオでは、どんなことを学びましたか?
槇野翔太
まず掃除ですね。掃除が終わると先輩がチェックに来るんですけど、鏡のほんの少しの指紋でも「これ何?」と言われるんです。そこが綺麗になっていないと、掃除が終わらない。
──
撮影技術以前に、現場を整えることから始まるんですね。
槇野翔太
そうですね。六本木スタジオには、一流のカメラマン、スタイリスト、ヘアメイク、タレントさんが来ます。だから、場が行き届いていないといけない。カメラマンが撮りやすいように動く。来る人が気持ちよく過ごせるように整える。そういうプロの基準を学びました。
──
かなり厳しい環境だったんですか?
槇野翔太
厳しかったですね。業界内でも厳しいことで有名でした。でも、僕は最短で出ようと思っていました。スタジオマンになりたかったわけではなく、カメラマンになりたくて入っているので。結果的に、2年3ヶ月で卒業できました。
赤いパンツでつかんだ、師匠への道
──
その後、師匠である渡辺達生さんと出会うわけですね。
槇野翔太
はい。もともと、高校時代から渡辺さんの写真が好きでした。被写体の女性が、内面から輝いている感じがあったんです。「この人はどうやって心を開かせているんだろう」とずっと思っていました。
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最初はどうやって接点を作ったんですか?
槇野翔太
渡辺さんが一般の方向けに撮影講座をやるタイミングがあって、その会場が六本木スタジオの裏にあるギャラリーだったんです。そこで講座に参加して、名刺を渡しました。「六本木スタジオも使ってください」「お手伝いさせてください」という気持ちもありました。その後、ロケのアシスタントとして呼んでもらえることになりました。
──
最初のロケはどんな現場だったんですか?
槇野翔太
プールの撮影でした。プールの中に入ってレフ板を当てたりする必要があったんです。その時、渡辺さんについていたアシスタントの方が水着を忘れてしまって。現場で「なんでプールなのに水着持ってきてないんだよ」というやり取りがあったんです。僕は「チャンスだ」と思いました。
──
そこで動いたんですね。
槇野翔太
はい。ズボンを脱いで、「僕、行きます」と言いました。ちょうど赤いパンツを履いていたんです(笑)。それで渡辺さんに「お前、やる気あるな」と言っていただいて。ヘアメイクさんが上半身のウェットスーツを貸してくれて、そのプール周りは僕が担当することになりました。その印象が良かったのか、次のロケにも呼んでいただけるようになりました。
「最後、僕だけ見てください」
──
そこから弟子入りにつながっていくんですね。
槇野翔太
はい。当時、渡辺さんはもう弟子を取るのをやめようとしていたんです。でも、先輩から「本当に学びたいなら、熱い思いを伝えてみたら」と言われて。食事の場で、自分の思いを伝えました。高校時代から渡辺さんの写真を見ていたこと。女性の自然な笑顔を引き出す写真に憧れていたこと。被写体の内面からの輝きを、どう撮っているのか学びたかったこと。そして、「そんなことおっしゃらずに、最後、僕だけ見てください」と言いました。
そんなことおっしゃらずに、最後、僕だけ見てください。
──
かなり熱いですね。
槇野翔太
そうですね。そしたら、「じゃあ、もうちょっとだけやるか」と言ってくださって。ありがたいことに、22代目のアシスタントになりました。いわば、最後の弟子ですね。
師匠が教えてくれた、人を輝かせる力
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渡辺さんの現場では、何を学びましたか?
槇野翔太
写真の技術ももちろん学びました。でも、それ以上に大きかったのは、人との向き合い方です。渡辺さんは、当時66歳、67歳くらいでした。でも、18歳くらいのタレントさんを2〜3分で笑顔にしてしまうんです。世代も違うし、話題も違うはずなのに、すぐ心を開かせる。
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どうやっていたんですか?
槇野翔太
撮影前からメイクルームに入って、自然に話をしていました。僕も真似してみたことはあるんですけど、同じようにはできませんでした。やっぱり経験値も違うし、才能も違う。渡辺さんには、渡辺さんに合ったスタイルがあったんだと思います。
──
槇野さんがそこから受け取ったものは何でしたか?
槇野翔太
人を撮るって、相手を支配することではないんだと思いました。相手が心を開くと、その人の中にあるものが出てくる。そういう状態を作れることが大事なんだと思います。
人を撮るって、相手を支配することではないんだと思いました。
──
指導は厳しかったですか?
槇野翔太
怒鳴られることはなかったです。たとえば、ポラ抜きというアシスタント作業があるんです。ポラロイドを撮って、すぐ抜いて、次のシャッターを切れるようにする。これをテンポよくやらなければいけないんですけど、最初はうまくできませんでした。でも、渡辺さんは怒らずに、「なんでそうなっちゃうんだろうな」と言うんです。
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考えさせるんですね。
槇野翔太
そうです。その一言で、自分で考えるんです。なぜミスをしたのか。次に成功するにはどうしたらいいのか。今思えば、すごいコーチングだったと思います。
渡辺さんがいなければ、今の自分も家族もいない
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あらためて、師匠への感謝を言葉にすると?
槇野翔太
渡辺さんがいなかったら、今の自分も、今の家族もいないと思います。本当に、渡辺さんのおかげで今こうやって生きています。大変感謝しています。
渡辺さんがいなかったら、今の自分も、今の家族もいないと思います。
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その感謝を、今こうして言葉にできることも大きいですね。
槇野翔太
昔は、周りからどう見られるかをすごく気にしていました。「変なことを言っていないかな」とか。でも今は、いい意味で気にしなくなってきました。愛があればいいかなって思えるようになりました。
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愛があればいい。
槇野翔太
そうですね。そこに愛があればいいかなって。
写真は、槇野翔太さんの世界を広げてくれた。そして、師匠との出会いは、人を撮るとはどういうことかを教えてくれた。遠回りも、失敗も、偶然も、すべてが今につながっている。後編では、独立後の苦労、言葉の力、撮影中に訪れる“ゾーン”の感覚、そして槇野さんが今たどり着きつつある生き方について聞いていく。